スタート地点へ向かう車の中、「Oさんがダム事務所に頻繁に水位確認の電話を入れくれたお陰で、仕手水位のデータがインターネット公開されるようになって便利になりましたね」などと、今日のツーリング参加者のOさんと冗談を交わした。
駐車後、スタート直後の難所である旧面河小学校下のホールを確認しに歩いた。斜度がきつくなっている区間を一直線で流れ下る最後の落ち込み。一本の狭い流れなので、そこを避けることができない極めてたちの悪い難所である。
その難所の真上にかかっている橋の上から「今日は増水でつぶれているから大丈夫」と、Oさんと二人でしっかり確認した。いや、確認したつもりでだった…
スタート地点に降り立ち、川に足を突っ込んだ。先週の四万十川と違って、面河川の水の何と冷たいこと。残暑はまだまだ厳しいが、水はもうすっかり秋である。
今回は、私がこれまで面河川を下った中でもっとも水量が多い。といっても、めちゃくちゃ多いわけでもないが、それでも水流のパワーは強く、水が重たく感じた。
まあ、このあとすぐの難所もつぶれていることだし、楽しく下ろうとの気持ちを込めてグイッとブレードをかいてスタートを切った。
私が先に漕ぎ出していたが、面河ダムからの支流との合流箇所で大回りしたせいで、Oさんがつぶれた難所行きの急流へ先に下って行った。私もすぐに追いかけた。
ふと先に目をやると、つぶれた難所のところで、赤いバウが天を指してひっくり返っている。さすがプレイボートだけあって、水の食われっぷりが良い。
これを見て、沈したくないと、微妙にルートを変えた。
私がその近くへ飛び込んだ瞬間、艇の動きがピタッと止まった。
「つぶれたように見えた地獄へようこそ!」
閻魔王が笑いながら、艇を後ろへ引っ張った。
地獄ホールへ引きずり込まれ、ひっくり返された。あわててロールアップした。一発で決まった。喜びも束の間、必死で前へ漕ぐも、またもや引き戻され沈させられる。
今度はロールを繰り返すもアップできず、沈したまま強い水流に巻き込まれる。
ロールを決めたところで、ホールへ引きずり込まれるのだったら、ロールしても意味がない…
そう思った瞬間、脱しかないと判断した。
もし、歩危常連のSさんの金言「やられたらそこで遊んでやったらいいんだよ」が思い浮かべば、もう一度頑張れたかもしれない。
脱しても唖然!体がホールの方へ引きずりこまれていく。
「お前は骨までしゃぶるのか」
あまりの無慈悲に愕然とした。絶望感にさいなまれる中で「死」という文字が頭に浮かんだ。パドルで漕いでダメなものが、素手や素足でバタバタしたところで、ここから脱出できるわけがない。「死」という言葉を抱きながら、体が水中に引き込まれていく。
でも、何だか息苦しくない。顔に激しくまとわりつくホワイトウォーターの気泡を吸っているのだろうか?
そんなはずはない。それができればOさんを越えたということだ。
バカげたことを考えながら、最後の時をゆっくりと噛みしめていた。激しい水流がやがてフカフカのベッドのように感じられてきた…
そのときだった、足の裏に石が触った。底まで沈んだのだ。とっさに頭から足に向けて伝令が走る。
「底を蹴って、地獄から抜け出せ!閻魔王に足をつかませるな」
気が付いた時には、地獄から脱出できていた。安堵した。
でも、しばらく瀞場といっても両岸岩壁の水路。水路中央の本流をプカプカ流され、なかなか岸に近づけない。
次に、もっと深刻な事態に気が付いた。水の流れは落ち着いているのに、未だに顔が水面から浮かび出ないのである。もがくとそのはずみで顔が水中から出せる。そのときに慌てて息をする。ライフジャケットをつけているのに何故だ。次の瀬は目前だ!
再び「死」という文字が頭に浮かんだ。瀞場でこんな状態なら、瀬に突入してしまうと本当に死ぬだろうと思った。低体温症で体の動きも鈍くなってきている。
最後のトライだと心に決めて、力を振り絞った。もがき泳ぎで何とか岸壁にしがみ付けた。
しばらくして、Oさんが私の艇をバウで突きながら運んできてくれた。
主人がいないなった後も我が艇は、しばらく地獄につかまっていたとのことであった。
心臓バクバク、肩で息をする。喉もカラカラだったけれど、すでにドリンクボトルは流されていた。
面河川の水を手ですくって飲んだ。
すっかり戦意を消失していた。もう怖くて漕げない。心に穴が開いた。
この岩壁の谷間から道路に上がるルートもなく、逃げ帰ることもできない。
しかし、ライフジャケットを着けているのに、何で顔まで沈むんだろうか?
答えはおそらく太ったからであった。5キロ以上体重が増えたから、ライフジャケットの浮力が利かなくなったのであろう。
腹回りについた肉もロールには邪魔だ。
普段、痩せよう痩せようと思っても、なかなか痩せられないものであるが、これで命に係わることが分かったので、本気で取り組める。
ライフジャケットも信頼できないし、自分の腕前も頼りない。それに艇も場違いのプレイボート。
ツーリング艇やクリーク艇だったら、水の食われも小さいし、つかまることもなかったであろう。状況や遊び方にあった艇を選択することが歳とともに重要になる。
いろんな反省をしてみても、ここから逃げられないので、とにかく棺桶カヤックで下るしかない。
岩壁続きで乗艇できる場所がない。危険を冒して泳ぎ渡り、何とかカヤックに乗り込めそうなところを見つけた。足をカヤックの中に収めようとするものの低体温症でやられて、動きが鈍い。
心が折れているうえに、体がこんな状態ではかなりやばい。でも、下らなければ何の解決もみない。心の折れを少しでも戻そうと、カラ元気を演じて再び漕ぎ始めた。
Oさんの後を追って次の瀬に突入したが、ビビりが入って体がこわばり柔軟性がなくなって、沈しやすい状況に陥っている。
チキンルートを探して本流から外れてみたが、石に乗り上げて、逆に危うい。
瀬をクリアしたところで、岸に上がれるところを見つけ、気を静めることにした。
心臓はまだバクバクしている。
この先どうであっただろうかと過去のことを思い出してみても、増水のせいで以前とは状況は変わっているだろうし、どんな危険が待ち受けているのか不安だ。とにかく、何でもないことを祈るのみである。
いくら休んでみても、無事にゴールしない限りは、気持ちの落ち着きは取り戻せない。気持ちを切り替えて再スタートを切った。
アドレナリンを放出しながら、びびりモードで漕ぎ続け、最難関の通称「ミニ曲り戸」まで何とかたどり着いた。
ここは事前の下見でポーテージすると決めていたので、気は楽だった。
艇を降りて、ポーテージのルートを確認してみると、危険個所を完全に回避できないことが分かった。岩壁づたいに艇を運べるところまで運んでも、荒れ狂う瀬の後半部分を漕がなければならない。険悪な落ち込みも見えているが、急流に思うようなルートも取れずにそこへまっしぐらというイメージしかわかない。地獄の再来だ。
どうにも自信がない。
別のところからポーテージできないものかと周囲を見渡すが、悲しいことに無かった。
漕ぐか止めるかの選択肢が無いというのも残酷なことである。
そんなとき、Oさんが「行こう!」と叫んだ。その自信がどこから来るのか不思議だったが、そもそもOさんにも成功イメージはないのだと思う。それでも怖いという気持ちを消せるのがスゴいのだ。
激流をやれる人は怖さを感じる神経を何本か切っているものであるが、Oさんはその神経が束で切れているのだと思う。
私も「行こう!」に同調して、気持ちを切り替えた。
しかし、一人ずつしか漕ぎ出せない場所に、まずは私の艇が置かれているのであった…
気持ちの整理ができないでいると、「私から行きましょうか」とOさんが言ってくれた。
もうプライドどころではない。「お願いします」と一番席を譲った。
Oさんとの事前打ち合わせで、まずは上流へ漕ぎ出し、流れに入って旋回し、中央寄りへ切り込んでホールを避けるというルートを確認した。
それにもかかわらず、Oさんといえば、スタートからほとんど漕がずにヒョロヒョロと急流に入っていって、そのままホールに向かっている。
慌ててバック漕ぎを繰り出すも、むなしく落ち込みにボコッと入っていった。
「ホール・イン・ワン!」私は心でつぶやいた。
沈は免れているものの、ホール直後で艇が横向きとなり、そこにとどまってフラフラしている。いつホールに飲み込まれて、人間洗濯機の刑に処せられてもおかしくない。
しばらくして、ホールに引き込む流れと下流への流れとの均衡が崩れ、艇はゆっくりと下流へ動き出した。無罪放免されたのだ。
次は自分の番。どんな審判が下されるのであろうか?
頭は最悪の事態しか想像できない。怖い、怖い…
ロールに自信がないということは、こんなに不安なものかと思う。沈して脱したら、セルフレスキューはもとより、助けてもらうのも大変だ。
Oさんのように、ホールへ流されるイメージしかわかない。でも、行くしかない。
私は、ほぼ理想どおりのルートをたどって、中央寄りに切り込んで行けた。
Oさんがはまったホールを望めるところまで来ると、川幅全体が落ち込みになっていた。
これはどこを通っても同じじゃないか!
次の瞬間、Oさんと同じように、ホール直後の審判場でフラフラしていた。
もう悪いことはしません!なにとぞ…
この瀬の閻魔王は寛大だった。私も無罪放免された。
後ろを振り返ると、この瀬の迫力に圧倒され、ここをクリアできたことに幸せを感じた。
もうここまで下れば、あとはウイニング・ラン。
出だしで本当に死ぬかと思ったが、何とか無事にここまで下れて、よかった、よかった。
今ある命は儲けもの。明日からもうちょっと大胆に生きてみよう。
さて、実はこの先、つかまるとヤバいホールがあるのだが、そこは既に織り込み済み。
事前にそこを避けるルートを進めばよい。
調子よく漕いでいたら、先を進むOさんの艇のバウが天を指しているではないか!
しかも、縦回転を始めている。
アッ、ここだった。難所は突然やってきた。
これは間違いなく沈脱だ。そう確信し、ご愁傷様とつぶやきながら、その場を慌ててかわした。
かわせたはいいが、目の前に岩が!
岩を避けようと艇を操作したものの体勢が崩れて、あっけなく沈してしまった。
ロールを繰り返すもののうまくアップできない。一度落ち着いてきちんとしたロール体勢を作ろうと必死でパドルを天の方へ差し出すものの一向にブレードが水面から出ない。
結局、闇雲にロールをしてしまい、体力を消耗してしまう始末。これはもうだめだ。脱だ!
しかしその瞬間、「ここでOさんだったら脱してしまうだろうか?」と思った。答えはノーだ。
また、スタート直後の脱しても死ぬ思いをしたことがよみがえり、最後にもう一度トライしてみようという気になった。
丁寧なロール動作に心掛けた。
腰の返しを十分意識して、まずは艇を起こし、それに連動するように上体を水中から引き上げた。
うまくいった。息が上がって、心臓がバクバクしている。
Oさんはきっと脱しているだろうと、上流へ振り返ると、漕いで近づいてくる。
さすがの一言。
この出来事に私は大きな壁を乗り越えられた気がした。
もう脱しかないと絶望の淵に立った時、もう一度落ち着きを取り戻すことで、ロールアップすることができた。
安易に脱しようと思うな。ロールできなくしているのは、自分の弱い気持ちだったのだ。
死んでも「脱」しないと腹をくくれ。
沈脱癖が付いたら、いつまでたってもロールは極められない。
激流の中でも、やがて穏やかなときが来る。その時に備えて体力を温存し、なぜできないのかを水中でじっくり考えてみる。
場合によっては、まったく違うことを想像して、脱しようとする気持ちをそらすことが有効かもしれない。
この後ゴールまで、ちょっとビビってしまう瀬が一か所あったが、無事に下り終えることができた。
■終わりに
レポートの表現内容は少しオーバーだったかもしれないが、激流で沈して水の中で息苦しくしているときに考えることは、最悪の事態である。例えば、ホールでグルングルン巻き込まれて凄いことになっていると思い込んでもいても、実は、ひっくり返ったままの状態で、ホールにちょっと引っかかって、ロールしようともがいているだけということはよくあることだ。
ここで平常心を保つことができれば、思い込みの恐怖に負けた、自滅の「脱」のほとんどを防ぐことができるかもしれない。どんな状況に陥ろうと冷静さを保つことが大事であると、今回も川からありがたい教えをいただいた。
旧面河小学校下のホールは写真奥、左岸側の橋脚のすぐ横にある。
橋から下を眺めても、ちょうど見えない位置にあたるため、状況把握ができなかった。
面河川の平水時ではおそらく大した落ち込みにはならず、川下りできるような水量になってくると、地獄化してくると思われる。
■ホールの構造
写真手前から流れ下る水が集中し、最後に両岸からせり出した岩でさらに狭まり、水流が盛り上がって落ち込むことによってできていると思われる。
なお、多くのホールは川底岩を乗り越える流れの落ち込みによってできているが、ここは特徴的な地形によって生み出されている。
落ち込んだ水流は、いったん底の方に潜って水面層で上流側に戻る反転流となる。
ここにカヤックがはまり込むと、下流に向いて漕いでいるのに、後ろ髪を引っ張られるがごとく、上流側に後退し始め、落ち込みの反転流に巻き込まれてバック転状態でひっくり返される。
反転流の勢いが強くなるほど、なかなかここから脱出することはできない。
特に人工物である横一直線の堰である場合には、堰を越えた落ち込み流に不規則な乱れが起きにくく、脱出するきっかけができないため、永遠につかまり続けることになる。死亡事故例あり。
なお、ツーリング艇やクリーク艇のように大きく長く容量のあるカヤックになると、ホールの上をつぶして越えていくようになるし、艇自体の浮力も大きく、また足も速くなるのでつかまりにくい。たらい舟みないなプレイボート(写真)は、わざと水流に絡ませて、艇を立てたり回転させたりして遊ぶのが目的であるので、このようなところで使うのは自殺行為に近い。